女に個性がない理由

女には個性がない。
世の女性達を見ていると本当にそう思う。
髪型、服装、化粧、性格、流行など、どれも似たりよったりで同じような女ばかり。
別に男だってそんなに個性があるわけじゃないし、個性がないことが悪いことだとは言わない。
それにしても日本の女の無個性っぷりはあんまりだと思う。
自我というものが感じられない。
なので女に個性がない理由を考えたので、良かったら読んでいってください。


男と女の子孫を残せる数の違い

女に個性がない理由。それは男と女の子孫を残せる数の違いにあると思う。
男と女では子孫を残せる数に圧倒的な違いがある。
男の場合は子孫を残せる数の上限が非常に大きい。
とにかくたくさんの女とセックスして妊娠させればいいからだ。
だから100人でも、なんなら1000人でも自分の子孫を残すことが可能だ。


しかし女はそうはいかない。
残せる子孫の数に限りがある。
一人の女がどんなに頑張っても生涯で生むことのできる子供の数はせいぜい10人くらいだ。
現実的な話で言えば、一人の女が生涯で生む子供は1~5人くらい。
女には子供を生む役割があるので、男よりも子孫を残せる数がかなり少ない。


男は最高の結果を目指す。女は最悪の結果を避ける

男はその気になれば、いくらでも子孫を残すことが出来る。
多くの女にモテればモテるほど多くの子孫を残せることになる。
なので男の場合は、とにかく多くの女から好かれようとする行動を取る傾向にある。


女は男と違って残せる子孫の数に限りがある。
たとえ100人の男から好かれたとしても、その男たち全員の子供を生むことはできない。
だから女の場合は多くの男から好かれるメリットが少ない。
どうせ夫婦になれる男の数に限りがあるのだから、最低でも一人の男から好かれようとする。
つまり女は最高の結果(多くの異性から好かれる)よりも、最悪の結果(一人の異性からも好かれない)を避ける傾向にある。


最悪の結果を避ける方法

女にとっての最悪の結果。
それは一人の男からも好かれず、一人も子孫を残せないという結果だ。
女はそれだけは絶対に避けようとする。
ではそれを避けるために最も効果的な方法は何か?
それは他の女たちと同化すること。
周りの女たちと同じような外見にして、同じような行動を取ること。
これが女の最善な行動になる。
こうすることによって、男の女への好意を分散させることができる。


極端な例を挙げれば、もし世界中の女全員が同じ要素を持っていれば、全員、男と夫婦になることが出来て、一人も溢れることなく、みんな平等に子孫を残すことができる。
ものすごいブスだとしても、他の女全員が同じくブスであれば、男から好かれることができる。
だから女が周りの女達に同化するのは非常に合理的だ。
これが女に個性がない理由だと思う。

人の役に立つ仕事がしたいとか言ってる奴はクズ

「人の役に立つ仕事がしたいです」とか言っている人がいますよね?
そういう奴を見る度に本当にクソ野郎だと思う。
そいつらは人の為なんて思ってなくて、自分のことしか考えてない。


仕事なんて金を稼ぐ以上の価値はない。
だってみんな稼いだお金は全部自分のために使うでしょ?
他人に譲ったり、寄付する人なんていない。
中には金持ちで少しだけ寄付する人もいるけど、その人の収入からしたら本当にわずかな額。
稼いだ金の大半を寄付する人なんていない。
その時点で他人のことなんて全く考えてない。


本当に人の役に立ちたいと思っているなら、稼いだ金は生活するのに最低限必要なだけ残して、残りは全て寄付すべきだ。
例えば、人から尊敬されるようなまっとうな仕事をして年収400万だけど、稼いだ金は全て自分のために使う人と、多少悪徳ではあるけど法律に違反しない範囲で年収100億円稼いで、稼いだ額の全てを恵まれない人などに寄付してあげる人だったら、絶対に後者の人のほうが人の役に立っていると思う。
もし本当に人の役に立ちたいと思っているなら、多少強引でもいいからとにかくたくさんの金を稼いで寄付したり、その金を資金にして社会奉仕活動をしたほうが確実に世のため人のためになる。
でもそんなことをする人間は誰もない。


だから結局、「人の役に立ちたい」とか「社会に貢献したい」とか言ってる奴らはただ人から感謝されたり褒められたいだけで、他人のことなんて何も考えていない。
なのに自分は人のため、社会のために働いていると思い込んでいる。
本当にクズだと思う。
「ただ金を稼ぐためだけに働いている」、そういう正直なことを言う人の方がよほど好感が持てる。

いじめが絶対になくならない理由

今日はイジメ問題について語ります。
今の世の中にはイジメが溢れています。
イジメについては日本中で問題視され、様々な解決策が考えられていますが、一向になくなる気配がありません。
イジメを苦に自殺してしまう子供が後を立ちません。
イジメは子供だけの問題ではなく大人社会にも溢れています。
むしろ大人の方が問題かもしれません。
有名人への誹謗中傷などもその一例ですね。


なぜ世の中こんなにイジメだらけなのか。
なぜいつまでたってもイジメがなくならないのか。
その理由を考えたので、これから語っていきます。


加害者が自覚していない

イジメがなくならない理由、それはイジメ加害者が自分がイジメをしている自覚をしていないからだと思います。
そもそもイジメとはイジメを受けた側の主観によって決まるものです。
イジメた側がイジメたと思っていなくても、受けた側がイジメだと判断すればそれはイジメになってしまいます。
だから加害者がイジメを自覚するのは非常に難しいです。
加害者はあくまでも遊びや冗談のつもりで、相手を傷つけている自覚がない場合が多いです。
だから「イジメはいけません」とか「イジメは辞めなさい」とか言ったって、辞めるはずがないんですよ。
だって本人がイジメをしていると思っていないんですから。
これがイジメがなくならない最大の原因です。


全員が加害者

じゃあその加害者は誰かといえば、それは今生きている人達全員がそうだと思います。
人はみんなイジメの加害者なんですよ。
なんてことを言うんだ、と思われるかもしれませんがこれは事実です。


だってある程度人生を生きてきて、一度も他人を傷つけたことのない人なんていないと思うんですよ。
みんな普段何気なく無自覚に人をイジメでいます。
人生で一度も人の悪口や陰口を言ったことのない人なんていないでしょう。
ネットの誹謗中傷などは当然ですが、仮に自分でしていなかったとしても、そのような書き込みやコンテンツを見て、楽しんでいたらそれも同罪です。
不祥事を起こした有名人へのバッシングだって完全にイジメです。
犯罪者をバッシングするのですらイジメだと思っています。
例えば学校でイジメ事件などが起こると、加害者の個人情報が晒し上げられて、袋叩きにされますが、それも完全にイジメですよね?
だから世の中の人間みんなが加害者なんです。


中には、私は一度も人をイジメたことなんてない、と言う方もいるかもしれませんが、そう断言するのは絶対に不可能です。
だって生まれてから自分がした全ての言動を記憶している人なんていません。
自分が覚えていないだけで、イジメを行ったことがあるかもしれません。
人は自分の都合の良いように記憶を改竄しますから。
さらに先程も言いましたが、イジメというのは受けた側の主観によって決まります。
だから自分でイジメたと思っていなくても、相手から思われたらイジメになってしまいます。
だから一度もイジメたことがありません、なんて断言することは不可能なんです。

つまり今生きているう人達全員がイジメの加害者なんです。


みんな被害者気取り

みんながイジメの加害者だと言いましたが、それを自覚している人はほとんどいません。
それどころかほとんどの人が自分は被害者だと思っています。
例えば有名人などが「昔、イジメに合っていました」と告白することがありますが、それを聞く度にもやっとします。
イジメられたのは本当のことなのかもしれないけど、じゃああなたは一度も人に酷い事をしたことがないの?、と思ってしまいます。
そして、イジメられました、と告白する人はたくさんいるのに、イジメていました、と告白する人は全くいません。
それはやっぱりおかしいですよね?
イジメられた人がいるってことは、その分イジメた人がいるってことですから。
では加害者は後ろめたさから、そういう話をしないのかと言えばそうとも思いません。
結局、みんな自分は被害者だと思っていて、加害者だという自覚がないんだと思います。


とは言え、自分は被害者だ、という主張は間違ってはないと思います。
みんなが加害者だと言いましたが、それと同様にみんなが被害者でもあると思います。
誰だって人生で一度くらいは人から酷いことをされたことがあるはずですから。


しかし、自分が被害者である一面だけを強調して訴えかけても、イジメ問題が改善することは一切ないと思うんですよね。
何度も言いますが誰もが加害者であり、被害者でもあります。
だから現在イジメをしている人だって被害者なんですよね。
だから昔イジメに合っていた人が、現在イジメに合っている人達に向けて励ましの言葉を送ったところで、それは加害者に対しても被害者としての自覚を強めるだけだと思います。


それよりも必要なのは元加害者から加害者への訴えかけだと思います。
例えば「昔、私はイジメをしていました。今すごい後悔しています。もし今イジメをしている人がいたら絶対に辞めたほうがいいです」とこのような訴えかけが効果的だと思います。
こうすることにより、現在イジメをしている人たちに、加害者としての自覚を持たせることができます。
これがイジメ問題改善のために大事だと思います。
だけどこのような告白をする人は誰もいません。
みんな被害者としての自分しか見ていません。
だからイジメがなくなることは絶対にありません。


イジメをなくすには

僕は世の中からイジメがなくなることは絶対にないと思っていますが、もしなくしたいのならどうすればいいのか、考えてみます。

まず、人に「イジメを辞めなさい」と言ったって絶対になくなりません。
そう言うその人自身にも加害者としての資質があるのだから。
だから他人を責めるのではなく、自分自身が変わるやり方でなければ駄目です。

まず自分自身がイジメの加害者であるという自覚をして、今後他人をイジメないように最大限気をつける。
そして自分がイジメの被害に合った時、しっかり対処できるだけの知恵や精神力を身につける。
イジメは受けた側がイジメられたと思わなければ、イジメにはなりません。
だから一人ひとりがイジメに対処できるだけ強くなれば、イジメは発生しません。

こうやって一人ひとりが自分自身が変わるやり方をしなければ、世の中からイジメがなくなることは絶対にありません。

「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれるのにうんざりする

今日はポイントカードについて話します。
店で買い物をすると会計時に「ポイントカードはお持ちですか?」とよく聞かれます。
僕はポイントカードを持っていないので「ないです」と答えるのですが、この無駄なやり取りをする度に本当にうんざりします。
持ってたら出すんだからいちいち聞くなよっ、と思ってしまいます。
たった一言なんだからそれくらい我慢しなよ、と言われてしまうかもしれませんが、僕が嫌なのはこのやり取りが誰も得しないからなんですよね。


そもそも何のために「ポイントカードはお持ちですか?」と聞くのかといえば、カードを出し忘れる人がいるからだと思います。
精算後にカードを出されると処理が面倒なので、わざわざ聞いているんだと思います。
でもその人たちのためにわざわざ聞かなくていいんじゃないか、と思います。
だってそれはどう考えても出し忘れた人が悪いんだから、わざわざ店員が確認する必要ないと思うんですよね。
もし出し忘れた客からクレームを言われたとしても、店側が責任を取る必要はないと思います。
なんならレジの前に「ポイントカードは会計前に出してください」と注意書きでもしておけばそれで済みます。


結局、カードの有無を聞いて得するのって、カードを出し忘れた人だけですよね?
それがすごい腹立たしいんですよね。
だって悪いのはカードを出し忘れた人ですよね?
なのにどうして彼らが得をして、何の関係もないカードを持っていない人達が余計な負担を強いられなければならないのか。
あまりに理不尽です。


散々文句を言いましたが、それでもまだ客はマシだと思っていて、本当に大変なのは店員だと思います。
普段、買い物の時にレジに並んでいて、客全員にカードの有無を確認している店員を見ていると、本当に大変だなと思います。
店員の人は一日に百人以上も接客するのは当たり前で、その度にカードの有無を確認しなければならにのは本当に骨が折れると思います。
別に店員だって聞きたくて聞いているわけじゃなくて、店のマニュアルで決まっていて仕方なく聞いているはずです。
だから店員の方の大半もカードの有無を確認することに対してうんざりしていると思います。
店員なんてただでさえ安い給料で働かされているのに、それにこんな余計な負担まで加えたら本当にやってられないと思います。
中にはこれが原因で辞めてしまう人もいるんじゃないでしょうか。


これが非常にもどかしいんですよね。
結局、店員も客もどっちも得しないんですよね。
店員も嫌々聞いていて、客も不快な思いをする。
どっちも嫌な思いをしてしまいます。
そして先程も言いましたが、得をするのはポイントカードを出し忘れた人だけです。
その人達のために、客も店員もみんなが苦労しなくてはならない。
これがどうしても納得できません。


ポイントカード自体いらない

そもそもポイントカード自体がいらないと思っています。
何でかというと、ポイントカードの存在によって誰も得しないからです。


ポイントカードを利用している人は得していると思っているかもしれません。
確かにポイントを貯めることによって商品の価格が割引されたりするので、一見得しているように思います。
しかし実際には何の意味もありません。
なぜなら商品の価格は店側が決めているからです。
つまりポイントカードによって割引された分は、商品の価格に上乗せされているのです。
だから客からしたら何も得していません。
さらに店からしたらポイントカードを導入するために色々とコストが掛かっています。
その分もやはり商品価格に上乗せされています。
だから客からしたらむしろポイントカードの存在によって損しているんですよね。


客が損している分、店側は得しているでしょ?、と思うかもしれません。
確かに客の中にはポイント目当てにその店に行く人もいるかもしれません。
そうなれば店からしたら客が増えるので、儲けが増えて、得しているように見えます。
しかしやはりこれも意味がないんじゃないかと思います。
なぜかと言うと、今の時代は身近な店の大半がポイントカードを導入しているからです。
例えば全ての店の中で一店だけがポイントカードを導入しているのだとしたら、確かにその店の客数が増えるかもしれません。
しかし大半の店がポイントカードを導入していたとしたら、結局何も変わりません。
からしたらどの店も同じなわけだから、ポイントカードによる差別化が意味を成しておらず、集客力は一切上がりません。


だからポイントカードによって店も客も誰も得していないんですよね。
みんなが苦労するだけです。
だからポイントカードなんて無くすべきです。
法律で禁止すべきだと思っています。
最近ではレジ袋が有料化されましたが、そんなものよりポイントカードをさっさと廃止しろと言いたいです。

人に質問をするのは命令しているのと同じ

前の記事では会話について話しました。
今回も会話についてですが、もう少し掘り下げて話したいと思います。
会話の中でも、今回のテーマは「質問」についてです。


僕は人から質問されるのが苦手で嫌いです。
なんで嫌いかというと、人に質問するのって結局は命令しているのと同じだと思うんですよね。
質問というのは相手に回答してもらうことを期待して行われます。
質問された側はその質問に対して返答しなければいけません。


例えば、「あなたの趣味はなんですか?」という質問は「あなたの趣味は何か答えなさい」という命令と同じなわけです。
人から命令されたら誰だって嫌な気分になりますよね?
命令されるのが好きだなんて言う人はいないと思います。
この質問が日常会話で当たり前のように飛んでくるのですから本当にうんざりしてしまいます。


命令と同じく相手に行動を要求するもので「頼み」がありますが、「質問」は「頼み」よりも「命令」に近いと思います。
むしろ命令よりも質問の方が強制度合いが高いと思っています。
例えば、頼みであれば頼まれた側もまだ断りやすいです。
頼んでいる側も断られることを想定しているはずだし、断ったとしてもそこまで相手に不満を持たれることもないと思います。


しかし質問はかなり断りにくいです。
「年収いくら?」とか「初体験いつ?」とかのやや突っ込み気味の質問であればまだ断りやすいですが、「趣味は何?」とか「休みの日は何しているの?」といった些細な質問はかなり断りづらいです。
もし「答えたくない」と断ったりしたら、そのくらい答えてくれたっていいじゃん、といった感じに非難されてしまう可能性があります。
本来、質問している方が悪いはずなのに、なぜか断った側が非難されてしまう。
それはかなり理不尽に感じます。


質問されて腹立たしいのが、相手が自分が命令しているという自覚をしていないことなんですよね。
質問している側は相手に行動を強制している、負担を強いているという自覚がありません。
質問に答えてもらって当たり前だと思っています。


だから僕は質問されるよりも命令されるほうがマシだと思ってます。
命令なら命令している側は自分が命令していると自覚しています。
だからまだ命令の方が断りやすいんですよね。
命令される場合は、相手の方が悪いのが明らかなので、断ることに対して後ろめたさがないんですよね。
質問の場合は断る際にどうしても相手に対して少しだけ申し訳なく思ってしまいます。
こんな些細な質問に答えられない自分が悪いのかなと、軽い自己嫌悪に陥ってしまいます。
これがなんだかもどかしいんですよね。

 

許される質問

ここまで散々、質問を批判してきました。
では全ての質問が駄目かと言ったらそうではありません。
人と会話する上で質問はなくてはならないものですし、言ってもいい質問も当然あると思います。
言ってもいいタイプの質問をいくつか紹介します。


1つ目は二択で答えられる質問。つまりyesかnoかで答えられる質問です。
このタイプの質問であれば相手への負担が小さいです。
正しければyes,違っていればnoと答えればいいだけです。
例えば相手の好みを知りたい時、「趣味は何?」などと聞くのではなく、「最近映画にハマっているんだけど、あなたは映画は見ますか?」といった質問をします。
この質問であれば相手が答えるのも簡単だし、その後の会話も広げやすくなります。
yesと答えたら、共通の趣味があるわけだから話の展開がしやすいです。
noと答えた場合も、この例で言えば自分が最近見た映画を紹介したり、勧めたりと話を広げやすいです。


2つ目は相手に関係のない情報に対する質問。
これだと分かりづらいと思うので例を挙げると、「今何時?」とか「駅までの道を教えてくれませんか?」といった質問です。
これらもやはり質問を受ける側の負担が小さいです。
質問の答えを知っていれば、ただ事実を答えればいいだけですし、知らなければ「知りません」と答えればいいだけです。
このタイプの質問の良いところは、仮に答えを知っているが答えたくないときでも、「知りません」といえばそれで済むことです。
これが自分に関する質問、「趣味は何?」などの質問だと、「知りません」という言い訳が使えません。
自分に関することなので、知らないということはありえないからです。
このように答えたくない時に、質問を簡単に切り抜ける方法があるかないかは非常に重要だと思います。


3つ目は相手に質問を拒否する選択肢を与える場合。
例えば質問の前に「答えたくなければ答えなくて構いません」といった付け足しをする。
これなら相手も断りやすいので問題ないと思います。
やはりいきなり質問から入ってしまうと、どうしても断りにくくなってしまいます。
なので相手に質問を拒否する選択肢を与える。これが大事だと思います。


以上で終わります。お読みいただきありがとうございました。

なぜ人と会話するのは疲れるのか

世の中を見ていると多くの人がコミュニケーションに苦労しているように思います。
僕もその一人で、昔からコミュニケーションが苦手で、たくさん苦労をしてきました。
なぜこんなに人と話すのが大変なのか。
その理由について僕なりに考察をまとめたので、良かったら読んでいってください。


会話の目的の変化

なぜ人と会話するのが疲れるのか。それは環境の変化に現代人が適応できていないからだと思います。
まず、昔の人と現代人とでは会話の目的が異なるということを言いたいです。
会話をするには何か目的があります。
生物の全ての行動は何か目的があって行われています。
当然、人が会話をするのにも何か目的があるわけです。
ではその目的とは一体何なのか。
それはたくさんありますが例えば、情報交換のため、要件を伝える、頼み事をする、些細な雑談、異性を口説く、など色々あります。
もちろん他にもたくさんあると思います。
昔と現代を比較するとこの会話の目的が大きく変化しています。


昔は情報を得る手段が会話しかなかった

まず昔は主にどんな目的で会話が行われていたのかというと、それは情報交換のためではないかと思います。
現代だったら情報を得る手段はたくさんあります。
本、新聞、テレビ、インターネットなど。
しかし昔はそれらの手段はありませんでした。
文字が誕生したのですら数千年前であり、それも読み書きが出来るのは極一部の貴族くらいで大半の人は使えませんでした。
つまり昔の人はほとんどの情報を会話によってやり取りしていたわけです。
当然、昔だって生きていくためには情報が必要です。
作物の育て方とか、病気の治療法とか、道具の作り方とか、様々な情報が必要になります。
そしてそういった情報を得るためには人と会話をして聞くしかありませんでした。
だから昔の人達はたくさん会話をしていたわけです。


現代は情報を得る手段がたくさんある

それに比べて現代はどうでしょうか。
本、新聞、テレビ、インターネット。
会話以外にも情報を得る手段はいくらでもあります。
むしろこれらの道具は会話をするよりも効率的に情報を得ることができます。
だから現代では情報を得るために無理して会話をする必要がありません。
このように昔と現代では会話のあり方に根本的な違いがあります。


会話の量は昔とあまり変わっていない

現代人は会話をしなくても情報を得ることができます。
昔の人はおそらく会話の多くを情報交換に費やしていました。
そう考えると現代人は昔の人よりも会話の必要性が少なく、会話の量が減っているはずです。
しかし、世の中を見ていると現代人の会話量は昔とあまり変わっていないんじゃないかと思います。
昔の人がどれくらい会話をしていたのかわかりませんし、あくまで個人的な印象ですが、現代人の会話量が昔と変わっていないと仮定して、なぜそうなのかを考えてみます。

人間の体の構造は昔から変わっていない

その理由は現代人の体の構造が昔の人と大して変わっていないからだと思います。
人間が会話以外から情報を得るようになったのはごく最近のことです。
文字ができたのは結構前ですが、読み書きが出来たのは極一部の人だけでした。
一般人でも当たり前のように読み書きが出来るようになったのは、せいぜい数百年前からです。
生物は進化するものですが、さすがに数百年で体の構造が大きく変わることはありません。
つまり今生きている私達の体は、会話以外に情報を得る手段がなかった時代の人たちとほとんど同じということになります。
これだけ世の中の環境が変わっているにも関わらず、体の構造は変わっていない。
これが現代人が会話に苦労してしまう要因になっていると思います。


会話力のある人間が生き残ってきた

では昔の人達はどんな体質をしていたのか。
それは会話力の優れた人達ではないだろうか。
会話力は現代でもとても重要な能力ですが、昔はそれ以上に重要だったと思います。
有益な情報を得るためにも、仲間を作るためにも、異性にモテるためにも会話能力は必要不可欠です。
だから会話力の優れた人が生き残り、子孫を残してきました。
つまり私達はそのような会話力の優れた人達の遺伝子を受け継いでいるわけです。
でもだとすると疑問が生まれます。
現代人は皆、優れた会話力を持った先祖の遺伝子を受け継いでいるにも関わらず、なぜ会話に苦労する人が多いのだろうか。


会話力は後天的なもの

その理由は会話力が後天的に身につくものだからだと思います。
会話力は生まれた時からあるわけではなく、成長とともに養われていくものです。
生まれたばかりの時はみんな赤ん坊で喋ることができません。
そこから言葉を覚えて、人と関わり、色々な経験をして会話力が養われていきます。
だから会話力は後天的なものなんです。
では会話力には才能や素質はないのかといえばそうではありません。
当然、会話力が伸びる人、伸びない人がいます。
ではその差はなんなのでしょうか。


会話力を身につけるために人間が持っている性質

会話力を伸ばす最良の方法は人とたくさん会話することです。
人とたくさん会話をした人ほど会話力が伸び、それによりさらに人と関わる機会が増え、たくさんの子孫を残していきます。
だから人間の体には人とたくさん関わろうとするある性質が備わっています。
それは人と接すると幸福を感じ、人と全く関わらないでいると苦痛を感じるという性質です。
人はその性質があるからこそ、人と関わろうとするわけです。
そしてその性質が強いほど、たくさんの人と関わり、多くの子孫を残すことになります。
当然、現代を生きる私達もその性質を受け継いでいます。
これで先程の疑問が解けます。
現代人は会話をする必要性が減っているにも関わらず、なぜ昔から会話の量が変わっていないのか。
それは人と話すと幸福を感じるから。人と話さないでいると苦痛を感じるからです。
だから会話をする必要がなくても、現代人は人と積極的に会い、たくさん会話をするのです。


情報交換から共感の会話へ

現代人は昔の人と比べて情報交換のための会話が大分減っている。
しかし会話の量は昔の人とあまり変わっていない。
つまり昔の人が情報交換のために会話をしていた分、別の会話が行われていることになる。
その会話とは一体何か。
それは共感を目的にした会話ではないだろうか。
共感の会話とは一体何か。
まず情報交換とは一方がある事実を知っていて、もう一方が知らない時に成立する。
自分が知っている事を相手に話す。または自分が知らないことを相手から聞く。それが情報交換です。
それに対して共感とはお互いに同じ情報を共有していて成立する。
お互いが知っていることに対して意見や感想を言い、相手の反応を見る。それが共感目的の会話です。
現代はこの共感目的の会話が多く行われている印象です。
そしてこの共感こそが会話が疲れる原因ではないかと思っています。


共感目的の会話は疲れる

情報交換と共感の会話を比較してみると、情報交換の方が圧倒的に楽だなと思います。
情報交換はただ事実をありのままに相手に伝えればいいだけです。
聞く側もただ相手の話を聞いていればいいだけで、無理して返事や反応をする必要もありません。
それに対して共感目的の会話は、お互いが既に知っている事実に対して意見や感想を言い合います。
相手の意見が自分としても理解できる、共感出来る場合は楽しいかもしれません。
自分と同じ考えの人がいるんだと仲間意識を持てて、安心することができます。
しかしそんなに都合良くはいきません。
人はみんなそれぞれ違った生き方をしていて、違った価値観、思想を持っています。
なので当然、人と話していて自分とは違った、全く理解できない価値観、思想に出会うことがあります。
そのような時に素直に自分の考えを相手にぶつけてしまうと言い争いになり、その後の関係がぎくしゃくしてしまったりします。
なのでそのような事態を避けるために、自分の気持ちを抑え込んで相手に同調してしまう人が多いように思います。
これが会話に疲れる要因なんじゃないかと思います。

以上で終わります。最後までお読みいただきありがとうございました。